一時を置く

目紛しいご時世、社会も環境もどんどん物事が早く変化しています。 その早さについていかなければ「時代という船に乗り遅れてしまいますよ」と急き立てられているかのようです。 世間を見渡すと時間を無駄にするなと言わんばかりのことだらけ。 ひとつのことをしながら他のこともするという「ながら」を推進するようなことが当たり前になってきています。 例えば、食べながらテレビを観る。 音楽を聴きながら電車に乗る。 スマートフォンを操作しながら歩く。 何かをしながら別の何かをする、こんな日々が多いと感性のアンテナが鈍ってしまう気がします。 折角、食事をするのに、テレビの画面や音に気を取られると、目の前のお皿やフォーク、テーブルクロスなどの彩りや素材の香りなどを感じるアンテナが散漫になり弱くなります。 珈琲の香り、かじる林檎の音、窓から見える景色や窓から入る花の香り、たくさんの心豊かにする自然を感じないのはもったいないことです。 五感が薄れ、感性のアンテナが鈍ると、いくら無農薬の野菜や新鮮な食材を体に取り込んでも、その消化や吸収される力は半減し、また栄養も半減してしまうのでは?と思うのです。 「ながら」をしたくなる癖、こみ上げる感情、何時も一時を少し置くと、それが本当にしたいことなのか、素直な想いなのか、いろいろ見えてくるものがあります。 忙しいという漢字は心を亡くすという意味から来たものです。 いま、一時、置いてみる暮らしにしてはいかがでしょう。

庭をつくる

父、母方それぞれの祖父母の家には庭がありました。 父方の祖父は植物が好きでガラスの温室を持っていました。 温室を囲むようにある庭は薔薇やしゃくなげ、牡丹などの低い花が多く植えられており、 冬季以外はいつも花や落ち葉で季節を感じる賑やかさがあって、花盛りの時にはかくれんぼ、 秋には落ち葉で焚き火をして焼き芋をしたりと、庭なのに山野原にいるような庭でした。 母方の祖父母の庭は、一級建築士の祖父らしく、松や石、金魚の池などが無駄なく配置され、 生け花の先生をしていた祖母の使う花たちが乱れぬ装いで庭に植えられていたのを覚えています。 子供心にとても対照的な祖父母らの人柄を映し出している庭は、暮らしは住まいに反映し、 その暮らしを作るのは住む人の性格、価値観で形成されてゆくものと感じました。 庭はそこに住んでいる人の生き様や想いを、植えている樹々や草花、鉢物から石や竹、塀などでわかります。 先日、ある先生の家にお邪魔し庭を拝見しましたところ、石を蒔いた小道に少し大きめな石が真ん中に置かれていました。不思議に見ていると「真ん中に置く時はこれ以上いけませんよ、というメッセージです。どうぞこの先もお通りくださいという時は脇に寄せるのですよ」と言われました。 さりげないことに込められた想い、とても魅力的で感動しました。 もし庭がなくても、住んでいる人が「わたしはこのような人なのですよ」と表現できる何かを空間に作ることは 来客人も住人も共に愉しめるのではないでしょうか。 ぜひ、庭でなくても心の庭をどこかに作られてはいかがでしょう。

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